けれど言葉は、湯気よりも軽々と、鼓膜の奥まで滑り込んでくる。
「他に……好きな人ができたの」
さっきの一言が、店内の空気を少しだけ冷たくした気がした。
café&grill LUCEの奥、わたしの席の隣。
見ない。見ないけれど、女の人の声は澄んでいて、言葉の一本一本が輪郭を保ったまま届いてくる。
「そうか」
男の人は短くそう言って、長く息を吐いた。机の上で指先を一度だけ鳴らすような、乾いた小音だった。
責めるでも、問い詰めるでもない。静かに受け入れる音。
その静けさのほうが痛い、とわたしは思う。
――もし、わたしが同じ言葉を言われたら。
〈次の休み、会えない?〉
望のメッセージを思い出しただけで、胃の奥がきゅっと縮む。
「……いつから?」
男の人が問う。抑えているのに、少し掠れていた。
「はっきり、自分でも認めたのは最近。……でも、最初に気づいたのは、たぶん一年前くらい」
一年前。思わず、わたしの時間も逆流する。
六年のうちの“去年”は、平坦だっただろうか。
仕事、望、休日のスーパー、母の電話。変わり映えのない毎日を、安心と呼んでいた頃だ。
「出会ったときはいい人だなって思ったくらいだったの。……でも、気づいたら目で追ってて。最初は自分に言い訳してた。誰にでも優しい人だからって。それでも、止まらなくなって」
女の人の声が、少しだけ細くなる。
言い訳、と彼女は言った。言い訳は、優しさの仮面にもなる。
わたしだって、“等身大”って言葉の中に、いくつの不安を隠してきたんだろう。
店員さんが、わたしのテーブルへ煮込みハンバーグを運んでくる。ふう、と湯気が立って、ソースの匂いが鼻先で溶けた。
「ごゆっくりどうぞ」
小声で礼を言い、フォークを置いたまま手を合わせる。
食べなきゃ。温かいうちに。でも、喉の手前で、何かがつかえて降りていかない。
「……その人は、君のこと、どう思ってる」
男の人が落ち着いて尋ねる。詰問ではなく、確認だった。女の人は少し黙って、正直に答えた。
「すごく大事にしてくれてる。私がいつもと様子が違うといつもすぐに気づいてくれるの。優しい言葉もかけてくれてとにかく温かい言葉をかけてくれるの。好きだと言われてはいないけど、きっと私と同じ気持ちなんだと思う」
胸のどこかに小さな棘が刺さる。
彼女の言葉はまるで昔の自分を見ているかのようだった。
わたしが望を好きになったきっかけもこんな理由だったんだ。
「……そうか。大事にしてくれる人か」
男の人が、ほんの少しだけ沈んだ声になる。
「うん。望さん……あの人を好きにならない選択肢なんてなかったの」
わたしは紅茶を持ったまま、指先を緊張させてしまった。
ちがう、と心のどこかで思う。知らなくていいことは、この世にたくさんある。
でも世界は、そういうときに限って容赦ないものだ。
男の人は視線を落とし、静かに呟いた。
「……相手は、望さん……というのか」
――心臓が、一回分、飛んだ。
カップの縁が小さく鳴る。わたしの手が、ほんのわずか震えたのだ。
“望”。
わたしの恋人と、同じ名前。ありふれた名前だもの。だから、きっと偶然に違いない。
偶然――偶然って、こんなふうに重なるだろうか。
女の人は、ゆっくり手を下ろし、うつむいた。
「そうか」
男の人はもう一度だけそう言って、グラスの水を口に運んだ。
氷がカランと鳴る。その音まで静かで、痛かった。
わたしは視界の端で、窓ガラスの外を見た。
街路樹が夜に溶けて、ガラスのこちら側にわたしの顔が薄く映っている。
平然を装っているけれど、唇の端が固い。
もし、明後日、望に同じ言葉を言われたら?
「他に好きな人ができた」と。
「もう止められない」と。――わたしは、何て答えるのだろう。
「ごめんなさい。本当に、ごめんなさい」
女の人が絞り出すように言った。
「あなたを傷つけるって、わかってた。でも、嘘つくほうが、もっと傷つけると思って」
男の人は少しだけ笑ったような気がした。
見ていないのに、笑った気配がわかるほど、声が近い。
「君が正直でよかった。……ありがとう」
ありがとう。
その言葉に、女の人は泣きそうに息を飲む。責められるほうが、楽なこともある。優しさは、時に罪悪感を鋭利にする。
わたしはフォークを持ち上げて、またそっと置いた。胃の奥の結び目は、ほどける気配を見せない。
「俺は――」
男の人は一拍置いて、続けた。
「君のことを俺以上に大切にしてくれる人ができて、よかったと思う。君には幸せになってもらいたいから」
「……うん」 「さよなら、やわらかな、けれど確かな終止符だった。空気が静かに沈む。
椅子がゆっくり引かれ、衣擦れの音がした。
男の人は店員さんに会釈をして、歩幅を乱さずに通路を進んでいく。足音が、扉の前でいったん消えて、ドアベルが一回だけ鳴った。
――出ていった。
目を閉じる。紅茶の香りが、少し弱くなっていた。
わたしはカップを両手で包み、温度を確かめるみたいに掌で受け止めた。
しばらくして、隣の席で小さな鼻をすする音がした。女の人は、紙ナプキンで目元を押さえ、深く息を吸う。
「ごめんなさい」
誰に向けてなのか、あるいは世界全体に向けてなのか、わからない声で呟いて、椅子を引いた。
トレイを片付けに来た店員さんに、会釈した。ドアベルが、また、鳴る。
一番奥の窓際。
いつもの席。 いつもの味。わたしは、まだ熱の残る煮込みハンバーグを前に、フォークを持ったまま動けなかった。
――相手は、望さん……というのか。
男の人の呟きが、遅れて胸に刺さる。
偶然。偶然だよ、と言い聞かせる声は頼りなくて、思考のどこかへ吸い込まれていく。
明後日。駅前のファミレス。昼過ぎ。
“等身大”というお守りが、手から滑り落ちそうになる。紅茶を口に含んだ。喉を通る熱はたしかなのに、体の中心は少し寒い。
壁の時計が秒を刻む。春はもうすぐそこにあるのに、わたしの中だけが、まだ冬のようだった。
紅茶の表面に、照明が小さく揺れていた。耳を塞ぐみたいに、そっとカップの縁へ顔を寄せる。けれど言葉は、湯気よりも軽々と、鼓膜の奥まで滑り込んでくる。「他に……好きな人ができたの」さっきの一言が、店内の空気を少しだけ冷たくした気がした。café&grill LUCEの奥、わたしの席の隣。見ない。見ないけれど、女の人の声は澄んでいて、言葉の一本一本が輪郭を保ったまま届いてくる。「そうか」男の人は短くそう言って、長く息を吐いた。机の上で指先を一度だけ鳴らすような、乾いた小音だった。責めるでも、問い詰めるでもない。静かに受け入れる音。その静けさのほうが痛い、とわたしは思う。――もし、わたしが同じ言葉を言われたら。〈次の休み、会えない?〉望のメッセージを思い出しただけで、胃の奥がきゅっと縮む。「……いつから?」男の人が問う。抑えているのに、少し掠れていた。「はっきり、自分でも認めたのは最近。……でも、最初に気づいたのは、たぶん一年前くらい」一年前。思わず、わたしの時間も逆流する。六年のうちの“去年”は、平坦だっただろうか。仕事、望、休日のスーパー、母の電話。変わり映えのない毎日を、安心と呼んでいた頃だ。「出会ったときはいい人だなって思ったくらいだったの。……でも、気づいたら目で追ってて。最初は自分に言い訳してた。誰にでも優しい人だからって。それでも、止まらなくなって」女の人の声が、少しだけ細くなる。言い訳、と彼女は言った。言い訳は、優しさの仮面にもなる。わたしだって、“等身大”って言葉の中に、いくつの不安を隠してきたんだろう。店員さんが、わたしのテーブルへ煮込みハンバーグを運んでくる。ふう、と湯気が立って、ソースの匂いが鼻先で溶けた。「ごゆっくりどうぞ」小声で礼を言い、フォークを置いたまま手を合わせる。食べなきゃ。温かいうちに。でも、喉の手前で、何かがつかえて降りていかない。「……その人は、君のこと、どう思ってる」男の人が落ち着いて尋ねる。詰問ではなく、確認だった。女の人は少し黙って、正直に答えた。「すごく大事にしてくれてる。私がいつもと様子が違うといつもすぐに気づいてくれるの。優しい言葉もかけてくれてとにかく温かい言葉をかけてくれるの。好きだと言われてはいないけど、きっと私と同じ気持ちなんだと思う」胸のどこかに小さ
放課後の保健室は、いつもより少しだけ長い夕焼けが残っていた。消毒液の匂い、しまい忘れたカップの緑茶、壁の時計。日誌を書き終えてペンを置くと、耳の奥で秒針がまだ歩いているみたいに静かになる。「おつかれ、奈那子先生。今日も残業女神?」国語の美千恵がドアのところで手を振っていた。「女神というより番人だよ。鍵、返してくるね」「そのまま帰り? 夕飯は?」「……たぶん、あそこ」「あそこって、『ルーチェ』?」うなずくと、美千恵は意味ありげに笑って「甘いもの食べすぎないでね」と小声で付け足した。甘いものじゃなくて、今日は温かいものがほしい。胸のざわつきが、まだ消えないから。駅へ向かう並木道。風は冷たくないのに、手の甲だけが少し冷える。〈次の休み、会えない?〉スマホの画面に浮かぶ“望”のメッセージを何度もなぞってしまう自分が、可笑しい。可笑しいけれど、笑えない。角を曲がると、見慣れた看板が灯っていた。café&grill LUCE(ルーチェ)。古いレンガの壁に、真鍮色のドアノブ。柔らかなオレンジの照明。光、という名前がよく似合う店だ。一人で夕飯を食べるとき、わたしは大抵ここに来る。背伸びしない味と、沈黙が許される音量のBGMがお気に入りだった。「いらっしゃいませ。お好きなお席へどうぞ」若い店員さんの声に、わたしは迷いなく奥へ進む。一番奥の窓際の席。街路樹の枝先がガラスに薄く映って、季節が少し遅れてやって来る場所が心地よい。いつもここ。今日もここ。コートを椅子の背に掛け、メニューを閉じる。頼むものはだいたい決まっている。「煮込みハンバーグと、十五穀米。あと、ホットのアールグレイを」「かしこまりました」頬杖をつくと、指先にまだチョークの粉の気配が残っていた。保健室にチョークはないのに、職員室で担任の先生たちに頼まれて黒板を拭いたからだ。こういう日常のかけらが、わたしを“先生”に戻してくれる。ポケットのスマホが、ふる、と震える。高校時代からの友人でもあり、親友の涼子だ。〈今夜も一人外食?〉〈うん。ルーチェ。〉〈しぶい。写真送って〉〈まだ来てないよ。〉〈じゃメニュー撮って〉〈撮るほどのメニューじゃ……って言うと怒られるやつ〉絵文字の笑顔が並ぶ。その顔にふっと笑みがこぼれた。〈で、例の彼
女の勘なんて当てにならない――ずっとそう思っていた。でも、この胸のざわつきだけは、うまく笑い飛ばせない。放課後の保健室は、薄いミルク色の光で満ちていた。ベッドの白いシーツ、消毒液の匂い、壁掛け時計の秒針。いつもと変わらない景色だ。「保健室って、なんか落ち着くんですよね」そう言って、のど飴を一個だけ大切そうにポケットへしまったのは二年生の瑠衣ちゃんだ。「落ち着くってことは、元気ってことよ。今日は帰ったらお風呂にゆっくり入って、早めに寝ないとね。この前みたいに夜更かししちゃダメよ」いつもの調子で言うと、彼女は「はい、奈那子先生」と笑った。“先生”と呼ばれるたび、まだ少しくすぐったい。養護教諭になって六年目。けれど、毎日が初日みたいに、誰かの体温に触れるたびに胸のどこかがきゅっとなる。生徒がはけて、急に静かになった保健室。机に座って日誌をまとめていると、スマホが小さく震えた。〈次の休み、会えない?〉画面に浮かぶ名前は“望”。大学を卒業してすぐに付き合い始めたから、もう六年になる。「そろそろ、かな」小さく声に出した自分の声が、ちょっと上ずっていた。返信を打つ指がふるふると震える。〈もちろん。どこで?〉すると、すぐ既読がついて、少し間を置いて返事が落ちてきた。〈駅前のファミレスで。昼過ぎに会おう〉……ファミレス。思わず笑ってしまいそうになる。いや、笑っちゃだめだ。プロポーズって、もっとこう、夜景の見えるレストランとか、ワインとか、そういう――。でも、わたしたちはずっとこうだった。肩ひじ張らない、背伸びしない、等身大のお付き合い。“わたしたちらしい”って言葉に、何度も何度も救われてきた。ロッカーから荷物を取り出し、保健室の明かりを落として職員室へ鍵を返しに行く。すれ違いざまに国語の美千恵が「おつかれー、今日もモテモテ養護の女神?今日も遅くまで生徒残ってたでしょ」とひそひそ笑って、わたしは「女神は残業女神です」と肩をすくめた。美千恵のこういう軽口にどれだけ救われているか、たぶん本人はわかっていない。帰り道。駅までの並木道に、春を追いかけるみたいな風が吹いていた。ふいに、切れ端みたいな記憶が胸の内側でひらひらする。大学四年の春。小さな居酒屋で、緊張した顔で「これから、どうする?